「五戸町鹿内」に行ってきました。
みなさんこんにちは。鹿内です。
先日、青森県五戸町鹿内という場所へ行ってきました。
しかないせんべいの、しかないと同じ地名です。
周辺は、川沿いに民家が並ぶ、とってものどかな場所でした。
このあたりはなんと、鹿内一族が、鹿内と名乗りはじめた場所であることから「鹿内」という地名になったそうなのです。
店頭では、『「しかない」せんべいって、どういう意味?』とお尋ねになる方がたまにいらっしゃいます。
「鹿内」という名字なんですよ、とお伝えしますが、全国的には珍しい名字ですよね。
鹿内の名字発祥の地は、五戸町。
とあるきっかけから、鹿内の名字が生まれたのは、五戸町だということを知りました。
やっぱり、青森県が発祥の名字だったんですね!
地図上では、このあたり↓。
鹿内一族がこの地に至るには、なんと、鎌倉時代まで遡ります。
もともとは「千葉」姓でした。
鹿内一族が鹿内を名乗る前は、「千葉」姓でした。
下記系図、左衛門太郎(↓赤囲い)が、千葉姓を鹿内に改め、初代、鹿内行氏を名乗りました。
※鹿内富士保著『上総介一族の由緒』より抜粋
事の始まりは、この行氏のおじいさんにあたる、上総介千葉秀胤(ひでたね)(↓赤囲い)。
当時の執権北条時頼により、鎌倉評定衆を罷免されたことに端を発して、五戸まで落ちのびることになります。
なんと初代鹿内氏のおじいさんは、鎌倉評定衆だったようです。
今ちょうど、NHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」をやっていますね。ホットな話題ではないですか!
その千葉秀胤を3代遡ると、千葉常胤(つねたね)(↓赤囲い)にあたりますが、
この人はまさに、鎌倉殿の13人に出てきます!!
ひょえー!
↑NHKサイトよりスクリーンショット。
なぜ五戸に落ちのびた?
鎌倉評定衆を罷免された千葉秀胤(↓赤囲い)は、鎌倉から上総に追放されました。
追放され、心休まらない秀胤は、三浦氏と通じて倒幕を企てましたが、その計画が幕府側に漏洩。
本家の千葉介に、反逆者秀胤を討伐せよとの命令が下り、
討伐の大将には同じ一族の東胤行(あずまたねゆき)(↓赤囲い)らが任命されました。
同じ一族の者に討伐を命令するなんて、むごいことを…。
(この北条氏と三浦氏との内乱は「宝治合戦」と言われ、吾妻鏡に記されています。)
東胤行の娘は、秀胤の息子、泰秀に嫁いでいます。
ちょうどこのとき、娘は出産のため胤行の元へ帰っており、そして男子、行氏が生まれました。この男子が、のちの鹿内行氏です。
まさに一族が討伐されるというとき、秀胤は、この男子は東胤行の外孫であるから許されるかもしれないと考え、天領である五戸郷へ逃れさせました。
そして五戸へ逃れた行氏は、姓を千葉から鹿内と変え、「鹿内左衛門行氏」を名乗るようになったということです。
五戸へ移住後は、千葉一族の支援のもと、安定した日々を過ごしていました。
その後北条幕府が滅んだ翌年、奥州において北条の残党が乱を起こした際、残党に与したことで五戸を立ち退くこととなり、青森市や津軽一帯に住まうようになりました。
「鹿内」の由来?
なぜ「鹿内」と名乗ったのか、については諸説あるようです。
今回ご紹介した内容は、鹿内富士保著『上総介一族の由緒』の内容をもとにしていますが、この書物には、
千葉一族が信仰する「妙見様」という神様の眷属が鹿であったことから、眷属に守られるという意味で「鹿内」とした、とあります。
一方、「シカナイ」はアイヌ語からきているという話も。
「ナイ」はアイヌ語で「沢」という意味ですが、実際、五戸町鹿内は川の流れる場所でした。
なぜわかったの?
と、いうわけで鹿内一族の由緒は以上のような内容です。
なぜこの内容を知るに至ったかと言いますと、わたくし、2020年あたりから「弘前古文書解読会」という会に参加しています(マニアック)。
その名の通り、ニョロニョロと書かれた古文書を解読する会です(弘前図書館で隔週日曜日に開催中です)。
その会員に、五所川原から来られている鹿内さんがいらっしゃいます。
その鹿内さんから、「鹿内一族のことが書いてある書物があるのをご存知ですか」とのお尋ねが。
「え!そんなものがあるんですか!」
と驚き、いただいた資料が、「鹿内富士保著『上総介一族の由緒』」だったわけです。
こちらの書物は、青森県立図書館に所蔵されています。
このブログをお読みの鹿内さん、県立図書館でぜひ閲覧してみては!
知り合いに鹿内さんがいるよ!という方、お近くの鹿内さんに教えてあげてくださいね!
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参考図書:「鹿内富士保著『上総介一族の由緒』」